抄訳
ヘルムート・バーガー自伝『私』


part1 - part4

わが生涯の渇望……私は愛されたい


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Ich-part1

 バーガーは、自分の性格的な問題点から語り始める。その問題点というのは、彼が二面性の持主であるということである。一方では天使のように善良で寛大でありながら、別の一面は悪魔のように邪悪。
 他人に見せたその暗い側面の例を、幾つか紹介している。
 ヴィスコンティの映画に出演したがっていたアラン・ドロンについては、バーガーはこんなふうに語っている。
「私はドロンの女房のナタリーとやった。彼女はホントにいい女だった。私たちは、後にマーロン・ブランドと『ラストタンゴ・イン・パリ』で共演して人気の出たマリー・シュナイダーと、3人でベッドで楽しんだのだ。私はこのイヤガラセをさらに徹底させるために、ドロンも今に判るさ、と芸能記者に漏らした。私に手を出そうなんて思ったら、ヤバイことになるだけさ」
 自分を小物俳優と思っているグレンダ・ジャクソンと、そのフィアンセのマリサ・ベレンソンについて──
 彼女は彼と結婚したがったが、彼は自分が家にこもって子育てを嬉しがるようなタイプの男じゃないと知っていた。そこでバーガーは自由になるために、敢えてマリサを傷つけた。関係を持ったとたんに独占したがるような女を、バーガーは嫌っていたのだ。
 リチャード・バートンについて──
 アル中のバートンがまた妻のリズ・テーラーと喧嘩したので、バーガーは、バートンがソファに身を横たえようとしたとき、チョコレート・トリュフをぶちまけた。バートンがソファから起き上がってスタジオに行こうとすると、そのズボンは真っ茶色。「リチャードはクソまみれみたいだった」とバーガー。

 次は、バーガーの善良な側面。
 彼は最近では、若くて有能な、しかし金のない監督たちの映画に、安いギャラで出演している。彼が悪徳不動産屋を演じた『ブームタウン』のクリストフ・シュルーズ監督とか、ヨハネス・ブルーナー監督などである。(もっとも、この監督が企画したルートヴィヒII』は資金難で実現しなかった。もしこの映画が実現していたなら、ヴィスコンティの古典的な作品と、『ルートヴィヒ1881 王、俳優、旅』に次ぐ3番目のルートヴィヒ映画になるはずだった)。バーガーはまた、ニューヨークの若手監督たちにも好意を持っている。ただし、アメリカの価値観やアメリカ人のセックス作法は嫌っている。



Ich-part2

 バーガーは、善人と悪人が交錯する自分の二面性について、最後にこんなふうに語っている。
「私はしばしば我を失う。夜通し飲んで、喧嘩して、バーをメチャメチャにしたあげく、何でこんなことをしてしまったんだろうと自問する。一度なんか、乱暴狼藉の果てに、ローマの刑務所に4日間ぶちこまれていたこともあった。ひどい体験だったが、それでも私の中のその他人は、また頭をもたげてくる。冷笑する悪魔は私を放してくれないのだ」
 ここで、悪趣味の極みとして評判になった1974年のパーティーのことにも触れている。ローマの有名なナイトクラブ「ジャッキー・オー」で行われた彼の30歳の誕生パーティーだった。ヴァレンチノやビアンカ・ジャガー、アーシュラ・アンドレスといった面々をはじめ全員が奇抜な衣装に身を包み、コカインを浴びて狂態を演じたのだった。当時バーガーは、こういった気狂い騒ぎが楽しくってしようがなかったのだ。
 彼が自分の生き方についてだんだん思慮深くなってきたのは、ここ数年のことである。
 ドイツのテレビのショウ番組が、彼のスキャンダラスな面を強調したがることに、彼は不満を漏らしているが、最近はそんなショウ番組でも喜んで出るようになってきて、ときどき滑稽な役を演じている。たとえば「ハラルド・シュミットの深夜ショウ」。この番組のホストがバーガーのファンなのだ。ここで彼は、たとえば「麻薬撲滅慈善キャンペーン」ではサッカーをやらされた。ゴールを決めるたびに慈善金が増えるという趣向なのだが、しまいにこのゲームは「麻薬の金稼ぎ」というタイトルに変わってしまったものだ。
 バーガーは言う。「私がこんなことを言っても信じないかもしれないけれど、私は非常に内気なのだ。酒を飲んで酔っぱらったのは緊張に耐えられなかったからであり、麻薬に手を出したのも、映画の封切りが怖かったからだ」と。

 バーガーは次に、自分の子供時代の話を始める。
 両親は(ホテル経営者で1996年に死去した)父親のフランツ・シュタインバーガーと、母親のヘドウィッヒ。この両親のあいだに、バーガーは1944年に生まれたが、ちょうど第2次大戦中のことであり、そのとき父親はソ連で投獄されていたので、彼が父親に初めて会ったのは3歳になってからだった。だから父子の仲はあまり良くなく、冷たいものだった。
 父は彼に実業を仕込もうとして、俳優になりたいという彼の意向を認めなかった。それでよく反抗的な幼いヘルムートを叩いた。バーガーはこのことは『私』の中では一切語っていないが、彼がヴィスコンティに一種の父親像を見ていたことは、大いにありうることである。母親の方はヘルムートを愛してくれたし、今も非常に愛している。(ときどき彼がローマのマンションに招待すると、母は何トンというオーストリアの懐かしい食べ物を持って飛行機で駆けつけてくる)母親はいつもヘルムートの味方なのだ。
 バーガーは学校のことも語っているが、それはオデッセイのような遍歴物語である。彼は一つの学校にじっとしていられないのだ。非行とか勉強したくないという理由でしょっちゅう学校を飛び出していた。両親は仕方なく、金持ちの良家のグータラ子弟が通う金のかかる学校に押し込んだが、彼はここで大した勉強もしないで卒業した。
 この学校の前に通っていたある学校で、修道士が彼にセックスは罪だと教えた。そのために彼は、そういった道徳律を克服するのにかなりの時間がかかり、最初のころはセックスをしても(相手は女たち)、快楽を感じることがなく、酒に溺れざるをえなかったと語っている。
 ウェーターとして実家の仕事をちょっと手伝ったが、それはほんの短い期間にすぎなかった。平凡な環境に耐えられず、自由になりたかった。有名人に会いたいし、自分自身が有名になりたかったのだ。ついに母親の金をくすねて、夜中にオーストリアを抜け出した。
 スイスに行って、一流ホテルのバーテンダーの職を得、18歳で童貞を失った(1962年のことである)。相手はザルツブルグ出身のレナータという女性だった。彼女は彼を愛し、ずっと一緒にいたがったが、これが彼の生き方、誰も彼をつなぎ止めておくことなんか出来ない。行かなくちゃ。もっといろいろ見なくちゃ。もっと刺激的な場に行かなくちゃ。
 1963年、彼は、当時の花の都ロンドンに乗り込んだのだ。



Ich-part3

 ロンドンに落ちつくとバーガーは、キングス・ロードにあるレストランのウエイターやモデルとして働きながら、初めて演技のレッスンを受けるようになった。ただし、それは個人レッスンだった。そのころのバーガーの英語力は貧しいものだったので、演劇学校には入れなかったのだ。(今ではバーガーは独、伊、英、仏の4カ国語を使って映画で演じることが出来るが)。
 ちょうどヒッピー時代が始まったころである。俳優もミュージシャンも写真家もスターの卵も、みんな同じ家族であり、やがてバーガーもその一員になった。スターたちの家はどの家も(例えばキャット・スティーブンス)開放され、マリファナを吸い、自由恋愛(ありていに言えば、乱交)をするのが流行りになった。
 バーガーはここで、男との性体験を初めて持った。
「大勢の人がいて、身体が触れ合って、自然にそうなった。ほどけた、ちょっとハイな気分になり、愛撫し、自分も愛撫されたくなる。何もかもがエロチックになり、好色な気分になる。服を脱ぐ。規則や道徳から解放された感じで“おー、いい、いい”自らに戯れ、他の人たちとも戯れ、みんな姉妹になり兄弟になる。甘い少年が私の上に倒れかかってきて、それがちっとも不自然に感じられない」
 人生はパーティーだった。ロンドンではマリファナを吸っただけで、コカインやLSDやエクスタシーには手を出さなかったとバーガーは言っているが、後にはそれらにも手を出したのは事実で、彼は麻薬の話や、忘れられない体験談をいくつか披露している。
 彼の最初のLSD体験は『地獄に堕ちた勇者ども』のプロモーション旅行でアメリカに行ったときだった(おそらく1969年だろう)。オートリア人の友人イリア・スチャネクと一緒に行って、「この麻薬の師匠」であるヘア・プロデューサーのマイケル・バトラーの家で試したのだ。彼はそのトリップ体験がどんなにいいものだったかを語り、そして読者には、使用後に身体を清浄するにはジュースをガブガブ飲むことで、アルコールは絶対にいけない、と忠告している。
 しかし、そこがバーガーの人間らしいというか、愛すべきところで、言った本人がヘマをやらかした。パリで『エメラルド』を撮影中の1985年、初めてエクスタシー錠を試したのだが、そのときワインと一緒に飲んだために、何日も頭痛に苦しめられることになったのだ。このクスリ体験については、こんなふうに語っている。「頭でやるセックスだ。したいが、出来ない。リラックスして、すごくいい気持ちになるが、立たないのだ」
 バーガーのコカイン歴は1971年のローマから始まる(ナイトクラブ「ナンバー・ワン」)。
「それは有閑階級のヤクだった。みんながやるなら、私もやる。だって、私は人の影響を受けやすかったし、流行りモノは好きだったし、それに当時は、仲間外れになたりくなかったから。たちまち私は半ポンドもやった」
 彼によれば、コカインが一番効き目が強いそうだが、ただし危険だから手を出さないほうがいいと忠告している。コカインをやると何日働きづめでも疲れを感じないという。最近では、ごくたまにしかやらないが、70年代には彼の一番の幸せ製造装置だったのだそうだ。ほどなくして、ヴィスコンティがバーガーがおかしいと気づいて、彼を精神医のもとに送り込んだが、彼は、演技のことを考えづめで眠れないのだと言い張った。1974年に一度だけ、ヴィスコンティはバーガーがコカインを嗅いでいるところを発見して、鍵を取り上げて彼の夜の生活を監視したことがあった。しかし、ここでもやはり、彼を止めることは出来なかった。
 それで、モンテカルロの舞踏会では、呆れるほどの珍事に見舞われた。バーガーは食事の前に質の悪いコカインをやっていたので、食卓で屁をたれたら、それが液体になってズボンにあふれてきたのだ。その夜の彼のズボンは白! だんだんズボンが茶色くなっていくので彼は席を立つことが出来ず、とうとう夜の9時から翌朝の4時まで座ったままで過ごさざるをえなかったのだ。ふだんは熱狂的なダンス好きのバーガーが踊ろうとしないので、友人たちは彼が具合が悪いのかと思ったものだ。家に帰って着替えると、バーガーはあるクラブに行って狂ったように踊りまくり、昨夜のストレスを発散させたそうだ。
 バーガーのパーティー好きは今でも変わらない。1992年には、50歳の誕生祝いだと称してメチャクチャなパーティーをやった。所はフランス、友人であるエスタンヴィユ家のエレーヌ伯爵婦人の館だった。ジャック・ニコルソンやロマン・ポランスキーも出席した。キャビア、コカイン、エクスタシー、ハシシュ、ウォッカ、シャンペン、ロブスターなどがバーガーによって供された。パーティーは2日間にわたって続いたが、あとに残ったのはヘドと糞の山。しかも立派な食べ物には誰ひとりとして手をつけていなかったのだ。それに、おっかしいのは、この日は実はバーガーの48歳の誕生日だったということ。それについて本人は、大パーティーにしたかったので50歳にしたのだと。
 この章の終りの部分で、バーガーは真面目な語り口になって、自分は麻薬でつまづいたことはなかったが、アルコール問題を抱えていると告白している。
「私は本当の私とは正反対のものとして現れる。私が憎む人間として、嘘つきとして、怪獣、反人間的生き物として現れ、悪魔そのもののごとく振る舞う。恐ろしい!
 それは、1976年のヴィスコンティの死以後に始まったものだ。わが生涯のショック。私は強いアルコールに頼り、飲み方もとんどん頻繁になっていった。私の人生はルキノ・ヴィスコンティ以前のヘルムート・バーガーと、L.V.と一緒にいたヘルムート・バーガーと、そして言うまでもなくL.V.以後のヘルムート・バーガーに3分割された。そして、最後のものは悪夢でしかない。私の魂の中の何かがルキノと一緒に死んだ。彼は私の力も希望も墓場に持って行ってしまった。私は何度も何度も声を上げて泣き叫ぶ───“幸せだったよ、ルキノ。でもひどいよ。どうしてこんなに早く私を一人残して行ってしまったんだ”と。これこそ、私にとっての根本の問題なのだ。
 わたしは自分の仕事や友人たちを愛しており、そのどちらも失いたくないので、今はアルコールと戦っているところだ。そのためには、どうしたらいいだろうか。物事を素直に見つめなければ駄目だ。素直に見つめよう。喉が乾いて気分をよくしたいときの最良の飲み物はビールだ。今日はパスタと一緒にそれを買った」
(抄訳者注:このくだりを読むと、バーガーがこの自伝を書いたのは一種の治療のためであり、いろいろ問題を抱えてはいるが、彼には人生を切り開いていこうという強い意思があると思われる。また、そうでなくてはなるまい)



Ich-part4

  バーガーによれば、彼が女たちとうまくいかないのは酒乱のせいもあるが、最大の問題は、女というのはすぐに結婚して落ち着きたがるからで、それは自分の性に合わないのだ、とのことである。そして彼は、18世紀のドイツの詩人ジャン・パウル(オーストリアの小説家ロベルト・ムジールと並んでバーガーが愛読する詩人)の言葉を引用している。
「女は1日24時間ただ愛していればいいが、男はその間に他のことをしなければならないのだ」
 マリサ・ベレンソンとの仲がダメになったのも、この問題のためだったと彼は書いている。
 ここで一大センセーションを披露すると、バーガーは一度結婚したことがあった(私の推測では、まだ入籍したままではないかと思う)。このことについては、彼はあまり多くを語ろうとしない。その女性のフルネームさえ明かさず、ただフランチェスカとだけ呼んでいる。彼が彼女と結婚したのは1995年だったが、あれは間違いだった、もうじき離婚すると彼は書いている(もしかしたら、も う離婚してるのかな)。この女性とは長いあいだ、15年間も、良き友達だったが、バー ガーの言い分では、彼女は彼を利用したのだという。金目当てだったようだ(バーガーは ヴィスコンティの死後、大金を手に入れたはずだから)。この結婚は、おそらく彼が何かで苦境に立たされたときに実行に及んだらしく、自発的に決断したようだ。もっとも、役所に届けを出しに行くときも、彼は酔っぱらっていたそうだが。いずれにしろ、彼はこの結婚のエピソードについては多くを語ろうとせず、この話題に関してはどう扱っていいか 困っているみたいだ。とにかく、このごろは男だけだと主張しているバーガーだが、相変らずバイセクシャルであることは確かだ。
 ヴィスコンティがバーガーの人生でのナンバーワンの男性だとしたら、ナンバーワンの女性は女優のブリット・イークランドである 。彼女とバーガーとは30年来の友達で、最初から彼女を愛していたのに、いつも二人の間に何らかの邪魔が入った、と彼は言っている。
 まず最初は、イークランドがピーター・セラーズと結婚してしまったこと(ピーター・セラーズはコカインの飲み過ぎで死んでしま ったが、「ブリットが強すぎたので、ピータ ーがついていけなかったのさ」とバーガーは言っている)。次に彼女はベニスの金持の妻となり、次いでアメリカの映画プロデューサーと結婚し、その次には歌手のロッド・スチ ュアートと結婚した。そのスチュアートとも離婚した後、バーガーはローマの自分の家のディナーに彼女を招んで、結婚のプロポーズをしたのだ。しかし、イークランドは返事をせず、二人で爆笑して、それきりで終ってし まった。そのプロポーズは真剣なものだったのだが、いずれにせよ、空振りになった。おそらくイークランドは、そんな話が実現するはずがないし、バーガーは自分の残りの人生を共にするにはふさわしい男ではないと思っ たのだろう。それ以後も、良き友であることには変りはないが。
「男との愛の方が簡単だ。男というのは皆マザーコンプレックスの持主で、彼らは女を眺 めるとき、その眼や手を見ないで、胸にしか眼がいかない。男は愛と虹とを同時に考えたりしない。その気になったら、行って、するだけである。済めば “さよなら” で、“愛してる”なんて決して言わない」(これは愛の話なんかではなく、ただセックスのことを喋っているだけじゃないか!)
 次にバーガーは、ヴィスコンティ亡き後のことについて語っている。
「彼が亡くなってからというもの、あれほどにも深く強い恋は経験していない。私たちの絆は、お互いの自由を保持したものだったが 、それでも当然、二人とも絶えずヤキモチを焼いていた。私たちの愛はお互いに出たり入ったりしているようでいて、とてもとても強いものだった。彼は、私が自分の好みで選び出した私の父だったのだ。母はというと、現実の母が、私にはいる。彼女は毎年ローマの私の家に来て、何週間も滞在し、素敵な料理を作ってくれる」
 ここでバーガーは、彼と母との共作の料理のレシピを幾つか紹介している。「友達が来ると、みんなが作ってくれと注文する料理なんだ」なんて言っている。そのひとつが、有名なウインナー・シュニッツェルだ(もっとも、困ったことにバーガーのレシピは間違っている)。もうひとつがパスタ・ア・ラ・ゲ ッカ(“ゲイソース”添え、とバーガーは好んで呼んでいる。小さく刻んだトマト、モツ ァレラ・チーズ、ガーリック、バジルを塩、コショウとオリーブ油で混ぜて、冷蔵庫に一晩入れておき、次の日に、スパゲティ・アル・デンテの上にかければ完成。私も試してみたけれど、夏にはいい料理ですよ)。そして、もうひとつが伝統的なイタリアのスープであるミネストローネ(基本的には、季節の野菜なら何でもかまわない。それにスープを加え、なんならミニ・パスタを入れてもいい。 味が酸っぱくなるのでトマトだけは入れてはダメだとバーガーは言っているが、私はそんなことはないと思います。食べるときは、パルメザン・チーズを少しかけること!)。
 1964年にバーガーはロンドンからイタ リアに移り、イスチアに行った(もっとも、そのときのバーガーは、ここにヴィスコンティの城があることは、まだ知らなかった)。  ここで突然、バーガーは金の話を始める。金はたくさんなければダメだ、と彼は言う。
「私は生きていきたいんだ! ということはどういうことか判りますね。私は中産階級の中に埋もれていたくないんです」
 バーガーは有名画家の絵をたくさん持っていたし、若手画家の作品もせっせと買い集めていた。その若手の評価が上がれば、彼の財産もふくらんでいくというわけである。バー ガーは金を銀行に預けておくよりも、絵に投資する方がいいと考えていたのだ。しかし、災難にも遭った。1992年、彼のマンショ ンの部屋が焼けて、ミロ、シャガール、シーレ、ピカソなどの作品をフイにしてしまったのだ。そのあとのバーガーのセリフがふるっていた。「なに、こんな災難の後には、またいいことがあるさ」と笑って言ったのだ。
 次にバーガーは、デビット・ベイリー、ヘルムート・ニュートンと取り組んだ写真作品 のことに言及している。ニュートンが撮ったバーガーの写真は、ロンドン・テイト・ギャラリーの現代アートのコーナーに展示されたが、この展示会について彼は、「この写真は大成功だった。たくさんの見物客が押しかけてきたので、その展示室はしばしば閉鎖しなければならなかった」と、いつものように謙虚に語っている。






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