抄訳
ヘルムート・バーガー自伝『私』


part5 - part11

わが生涯の愛……ルキノ・ヴィスコンティ


おことわり:無断使用、無断転載を禁じます




Ich-part5

 第2部。3部からなるこの本の中で一番長 い章で、バーガーとヴィスコンティとの仲が語られている。時代でいうと1964年から1976年までの期間。
 バーガーはペルージャのサマースクールでイタリア語を勉強しているところだったが、 彼のヴィスコンティとの最初の出会いは、運命的に訪れた。
 バーガーはイタリア語以外にも歴史や建築の勉強もしなければならなかったので、友達とアッシジに行こうとしていた(彼は芸術に興味があり、絵画や文学についても、よく語っている。実際、彼は、たとえばルートヴィヒ2世など、自分が演じる役に関する本は手当たり次第に読んだ。また、彼の愛読書のひとつはフランスの作家ジャン・ジュネの『葛藤』である)。ところが、その友達はフィ レンツェの近くのボルテッラの方に行きたいと言いだしたので、二人は、とあるピザ店に入ることにした。で、それが奇しき運命だっ たのだ。実は、まさにこの日、この場所で、ヴィスコンティが映画(クラウディア・カル ディナーレ主演の『熊座の淡き星影・・・』)を撮 っていたのである!!
 映画撮影に興味を持ったバーガーは何もかも忘れて何時間も撮影に見入り、空想のなかでは、すでにその場で役を演じているのだっ た。日が傾いて肌寒くなってきたが、バーガーはシャツ一枚の姿である。ヴィスコンティ はずっと前から彼の姿を気にとめていたのだろう、アシスタントのひとりに言って、彼にスカーフを渡したのだ。しばらくしてヴィスコンティ自らが彼のそばに来て、どうしてこの場にいるのかと、完璧なドイツ語で尋ねた 。バーガーが学校の勉強のために調査に行く途中だと答えると、ヴィスコンティは翌日のランチに彼を招待したのだ。そして当日のそのランチ。ヴィスコンティはバーガーをいっときも側から離すまいとしたが、若者の方は自分の感情の乱れに怖れをなした(ヴィスコ ンティはバーガーにとって初めての男ではなかったが、恋愛感情をもって眺めた初めての男だったのだ)。バーガーはその場から逃げ出したが、ペルージャとザルツブルグの住所を書き残していくことは忘れなかった。実に 、バーガーが初めの予定どおりアッシジに行 っていたなら、二人の出会いはなかったので ある!!!
 バーガーは二人の関係が堅実なものであることを望み、パリに住んで贅沢をしたいと言ったので、二人はパリで暮すようになった。 ヴィスコンティは、どちらかというと保守的なところがあるので、自分がゲイであることを知られるのを、周りの者に(彼はコックや女中を何人か雇っていたが)知られるのさえ嫌ったから、二人は別々の寝室を持ち、夜中 にバーガーがヴィスコンティの寝室に忍んでいくのだった…。そして事が済むと、自分のベッドに戻って寝るようにとヴィスコンティ はバーガーに言うのだった。これは、ヴィスコンティがバーガーの若さを考えたものである。バーガーには若い仲間との付き合いが必要だった。だから夜になるとバーガーは、しょっちゅう密かに家を抜け出した。この夜の逃避行はますます激しくなっていった。一方のヴィスコンティは、映画を撮ったり脚本を書いているとき以外の時間は、本を読んだりクラシックを聴いたりして過ごすのが趣味だった。
 ヴィスコンティとは、最初は遊びのつもりだったのだけれど、すぐに本当の恋に落ちた 、とバーガーは告白している。ヴィスコンティはバーガーにとってはただの愛人ではなく 、友であり、父であり、また師でもあった。 ヴィスコンティはバーガーに英語がもっとう まくなるようにと指導し、また文学などの芸術の指導もした。ヴィスコンティ自身も、イスチアにある自分の城 “ラ・コロランビア” の改装を手掛けたほどで、ヴィスコンティは現代最高の建築家だ、とバーガーは言っている。
 ヴィスコンティは整理整頓が好きだったので、バーガーも今でも変な癖を持っている。 たとえば住まいの掃除。まあ、ちゃんと掃除できた試しはないけど。それからまた、家具の置き換えが好きで、ひと晩中それをやっていたりする。スーツケースの荷造りにも異常な熱意を注ぐ。彼がそのことを語ると、まるで科学の話をしているみたいだ。旅行前には 、その荷造りで丸1日かかるのだそうである 。一番大切なことは、衣服に皺がつかないようにすることだそうだ。このごろでは彼は、クスリやアルコールよりも、部屋の掃除や家具の並べ替えの方が好きになったと言っている。とはいっても、酒や何かのいけない物にも、ときどき手を出しているが。
 ヴィスコンティはまた、バーガーを多くの名士たちに紹介した。バーガーがロンドンに いたころの知合いはミュージシャンやモデルたちだったが、ヴィスコンティに紹介してもらったのは国際的なアーチストたちである。 指揮者レオナード・バーンスタイン、オペラ歌手のマリア・カラス、そしてバレー・ダンサーのルドルフ・ヌレエフ。このヌレエフとは、バーガーは一時関係を持った。ヌレエフ はセックスの超人だったが、バーガーはロシア人特有のニンニクとウォッカ好きには付いていけなかった。ヌレエフはバーガーと同棲 したがったが、バーガーはヴィスコンティの特権を彼に渡すようなことはしなかった。ヌ レエフが彼の愛人だったのは、ほんの短いあいだで、その間もヴィスコンティは、バーガーの夫であり、父親だったのだ。



Ich-part6

 ヴィスコンティは自分が貴族階級に属して いることについては、あまり関心を払わなかった。彼の思想は、真実に対する過激な探究 と、急進的マルキシズムとがミックスされたものだった。バーガーはヴィスコンティの映画作品を理解しようと試みたことがあったが 、結局、こう言うしかなかった──「彼の作品の美が、すべてを語っている」と。
 バーガーが大化けした最初の作品『地獄に堕ちた勇者ども』の役をヴィスコンティが与える前、ヴィスコンティはバーガーを厳しく鍛えた。バーガーはヴィスコンティ作品の中の役どころと、二人の関係との文脈のあいだで、目まぐるしく自分を変身させていったのだ。
「私は私の生涯が終るまで、彼の未亡人でありつづけるだろう。幸せを感じたり、酔っぱらったり、ヒステリックになったりもするだろうが、心の底は常に喪に服しているのだ。 彼は自分の感情をあからさまに表に出すことはなかったが、彼の作品が、人生の真実と、人生に何が必要なのかということに対する考え方を表現しているのだ」
 二人の関係では、ヴィスコンティが男で、自分は女だったとバーガーは言っている。つまり、セックスの面ではヴィスコンティが積極的な役を演じていたのだ。この点に関しては、最近は違ってきており、今バーガーが少年たちを自分のベッドに誘い込むときは、彼が男役である。
 映画の撮影中は、ヴィスコンティの注文がハードなので、セックスを楽しむ暇もなく、 せいぜい “エロチックな休憩” を取るだけだった。
「『地獄に堕ちた勇者ども』の撮影はハードで、マレーネ・デートリッヒ風の味が完璧に出るまで何日もかかった」とバーガーは語っ ている(このデートリッヒはニューヨークでの封切りのあとバーガーを呼んで “素晴らしかったわよ” と褒めたうえで、自分の写真に “どっちが綺麗かしら。マレーネより愛をこめて” と書いてバーガーに渡した)。
 それで撮影が終ると、バーガーはローマの有閑階級の仲間とのパーティーで遊び暮すのだった。ヴィスコンティを裏切る気はなかったけど、交遊関係の中で手に入れる情事はひ とつとして逃すわけにはいかなかっのだ、と語っている。
 1965年に、バーガーはローマのヴィア・サラリア366にあるヴィスコンティの別荘に引っ越した。
 バーガーは『華やかな魔女たち』や『ヤン グ・タイガー』で端役を演じた後、『地獄に 堕ちた勇者ども』でチャンスをつかんだのだったが、ヴィスコンティのこの映画はドイツ に対する愛情と(ファシズムに対する)警告をこめた作品だった。彼はクルップ家をモデルにしたエッセンバッハ家を通して、全ての政治的事件を描こうとしたのだ。この名家の最後の当主ボーレン・ウント・ハルバッハのアルント(“最後のクルップ”と呼ばれていた)とはバーガーも知り合いだったと言っている。アルントもゲイだったが、結婚もしていた。この男はバーガーも顔負けのエキセン トリックな男で、大金持ちだったが、やがて破産した。なにしろ毎年何百万ドルも浪費していたのだから。隆顔術と整形手術に大金を使い、鬱病とアル中になり、80年代にガンで死んだ(私は彼の自伝を読んだことがあります)。しかし60年代には、彼は大パーティーを催す愉快な男として有名で、金持ちや有名人がスキーをする冬の社交場として知られるオーストリアのキッツビュールによく集まっていたもので、バーガーもそこには、ブラジル人の友人フロリンダ・ボルカン(二人はローマで知り合った)と行ったことがある 。彼は彼女のことを “生涯の友” と呼んで、 旅をするときの連れにしていたのだ。独り旅の嫌いなバーガーは、最近は “気のいい” 女中兼コックのマリアとか、フロリンダの元恋人のロレンツォ・リッポリを連れて世界を旅している。
 『地獄に堕ちた勇者ども』が公開されるに当たって、彼の名字の “シュタインバーガー ” では長すぎるというので “バーガー” に変えることにした(いわゆる芸名ですが、もちろん、お判りでしたよね)。
 バーガーはヴィスコンティのスタイルについて、こう語っている──
「彼は私生活においても作品の中でも、語りの名手である。彼は文章を変えたり解釈したりしようはとはしなかった。空間と美が彼のテーマだった。彼は映画の小説家だった」
 ヴィスコンティが原稿を書いているあいだは、バーガーはよくポップコンサートに行っ た。彼は昔も今もビートルズやローリング・ストーンズ、ボブ・ディランが好きなのだ。だから、ビートルズが1967年にローマで公演したとき、ヴィスコンティはバーガーを喜ばせてやろうと、この素敵な4人を自分のディナーに招待したものである。その晩は音楽の話になり、ヴィスコンティは、ポップスとクラシックは将来一つのものになるべきであり、ビートルズもレオナード・バーンスタインと共演したらいいのに、と言った。ビー トルズの面々はこのアイデアに飛びついたが、マネージャーがウンと言わなかった。こんなプロジェクトはまだ時期尚早だったのだ。 バーガーはビートルズの4人全員が好きだったが、とりわけ仲良くなったのはリンゴ・スターで、二人は今でも友達である。その晩、さすがの大スターたちも、ヴィスコンティを前にしては、やや気後れ気味でビクビクしていた。しかし、ヴィスコンティのオペラ作品についての長口舌が始まると、いささか退屈 した。それでも、会話は朝の6時まで続いた 。ヴィスコンティはバーガーのポップ音楽に対する熱い思いを理解しようとしたのだ。
 その晩、ヴィスコンティはディナーのホスト役を完璧に果たしたが、連中が帰ると言っ たものだ「なぜ彼らは髪の毛を切らないのかね」。実をいうと、バーガーも髪の毛を長くしたかったのだが、ヴィスコンティが許してくれなかったのである。




Ich-part7

 バーガーと、ローリングストーンズのミッ ク・ジャガーとはいい仲だった。二人はニューヨークでもパリでも、いたるところで一緒になって騒ぎ、この二人に迷惑をこうむらな かった都市は無いくらいである。ビアンカ・ シャガーもいつも一緒で、バーガーはジャガー夫妻のどちらも気に入っていて、二人と一緒に同じベッドで寝たことさえあった。でも セックスは無かった、とバーガーは言っている。「3人朝帰りして、疲れ切っていたので 、すぐに熟睡した。何も無かった」と。そのホテルの部屋の窓は開いたままだったので、 彼らは昼ごろ眼を覚まされた。窓の下はホテルの庭で、そこには野外のカフェがあったので、ミックもバーガーも、一度眼が覚めた後は眠れなくなった。アタマに来た二人は、カ フェにいる客たちの頭に小便をひっかけてやった。おかげで、もちろん、ホテル代は膨大なものになってしまったが……。こんな調子だから、バーガーはパリの「プラザ」と、ミュンヘンの「フォー・シーズンズ」及び「パ レス」は出入り禁止になっていたのだ。
 バーガーはビアンカ・ジャガーの話は、よくしている。二人で旅行やショッピングを、 しょっちゅうしていたのだ。セックスでは男に惹かれるくせに、ふだんは女と一緒にいるのが好きだったのだ。
 それからまた話は『地獄に堕ちた勇者ども 』のことに戻る。いざ撮影が始まると、彼は緊張のあまり眠れなくなったのだという。しかし、ヴィスコンティは、そこいらへんのことはよく心得ていたので、ファーストシーンは後回しにして、4日後に撮るようにしてくれたのだそうだ。
 この映画の初公開はローマのシネマ・バルバリーニで行われて大成功をおさめたが、そのときバーガーはヴィスコンティと、ちょっとした喧嘩をしていたので、一人でホテル「 リヴィエラ」に投宿した。むろん、最低12個のスーツケースを持ってね。このホテルを 彼はよく利用していたので、ホテルにも留め置きのスーツケースが何個かあったのだが……。それで、映画の公開中は緊張しっぱなしだったから、「ハリーズ・バー」に行ってシャンペンを飲んだりもした。彼は、自分の演技に対するマスコミや観客の反応に、いつもナーバスなのだ。つまり、彼は本当は気の小さい人間なのである。みんなが自分を嫌うのではないかと、いつも怖れていたのだ。さらにその後の2週間は、怖さのあまり、部屋から出ることもできなかったほどだ。そして、世が明けたら、スターになっていた!
 ここでバーガーは話題を変えて、1967年の『ドリアン・グレイの肖像』の話をする 。イギリスの新聞は、この映画のバーガーを 「世界一の美男」と評したので、自分はこの映画でスターへのキッカケをつかむことができたのだ、と彼は言っている。
 『地獄に堕ちた勇者ども』で注目の的となったバーガーは、アメリカへPRツアーに出かけることになった。ニューヨークでのこの映画の初公開も、もちろん大成功。でも、こ こでもまた彼はナーバスになって、ブラディ ・マリーの力に頼ったり、ニューヨークで知 り合ったマリサ・ベレンソンと夜な夜な踊り狂ったりした。しかし、昼間はインタビューが目白押しだから、疲れること。「バカバカ しくって、やりきれない」と彼は言っている。睡眠時間を確保するためにヒゲを剃る時間を惜しんだほどだったのだ。
 あるとき、友人のエゴン・フォン・フュールステンバーグが彼をクラブ「グローリー・ホール」に連れていってくれたことがあった 。いかがわしい店である。店の中のあっちこっちに穴があって、二人の男がそこで陰部を押し当てあったりしている。見えない陰では 何をやっているのか判らない。しかし、二人はこの店で大いに楽しんで、朝の6時まで遊んでいた。
 ヴィスコンティはアメリカからはすぐに離れた(共産主義者の好ましくない人物とみなされていたので、『地獄に堕ちた勇者ども』 の公開期間中しか滞在を許可されなかったのだが、どっちにしろ、ヴィスコンティはアメ リカは嫌いだった。まあ、あの“みすぼらしい”Tシャツ青年だったバーガーと一緒に行 けたことには満足していたが)。
 一人になったバーガーには連れが必要なので、オーストリアからガールフレンドのイリア・スチャネクを呼んだ。シカゴで撮った二人の写真は有名である(155ページ)。
 ローマに戻ったバーガーの耳に、『悲しみの青春』の撮影企画の話が伝わってきた。監督はヴィットリオ・デシーカで、バーガーを使いたいと言ってきたので、ヴィスコンティ がディナーパーティーに彼を招待した。その テスト撮影のとき、バーガーは緊張と興奮のしっぱなしだった。それで決まった相手役の女優はドミニク・サンダ。初キッスのあと、バーガーは目眩を感じた。撮影が始まると、また彼はイライラ、ビクビクのしどおしだっ たが、映画は成功。オスカーの最優秀外国映画賞を獲得したのだ。



Ich-part8

 ヴィスコンティはバーガーの趣味や興味を自分と同じものにしたかったので、芸術について様々なことを教えるとともに、また多くの著名人を紹介した。そのひとつが、ザルツブルグ音楽祭での有名な指揮者フェルベルト・フォン・カラヤンとの出会いだ。この音楽祭にはヴィスコンティのみならず、母も同行できたことをバーガーは喜んだ。ザルツブルグで過ごした日々は息抜きと休暇の日々であ り、よく眠り、カフェ・トマゼリに行き、ディナーは「ゴルデナー・ヒルシュ」でとると いう毎日。そこには、いうまでもなく、ロミー・シュナイダーやイヴ・サンローラン、ロスチャイルド家の面々といったキラ星のような有名人が集まっていた。
 ヴィスコンティはカラヤンが嫌いで、彼が自分のオペラの音楽監督兼指揮者になっていることを面白く思っていなかった。それで、ヴィスコンティは、カラヤンが『ボリス・ゴドノフ』を指揮している途中で席を起ってしまったのだ。これは目立った。だって、バーガーとヴィスコンティは最前列の席にいたのだから。それでバーガーとカラヤンの愛妻エリエットが、ヴィスコンティとカラヤンの仲を取り持とうとしたのだったが、うまくいかなかった。二人は会うには会ったが、食い物の話をしただけで、芸術に関しては爪の先ほども話題にしなかったのだ。ヴィスコンティ はカラヤンが著名人の取り巻きを従えているのが気に食わなかったのだが、そんなこととは別に、この二人の芸術家の最大の相違点は 、カラヤンは傲慢であるのに対して、ヴィスコンティは謙虚だ、という点である。
 冬になると、バーガーはまたスキーに行く 。ヴィスコンティとしては、サン・モリッツ に行けばいかがわしい遊びをするに決まっているので、なんとかキッツビュールに行かせたかったのだが、バーガーを止めることはで きなかった。バーガーは(安い宿に宿泊していたにもかかわらず)普通の勤め人の年収分を4週間で使い果たした。
 バーガーがスキーで怪我をすることを怖れ たヴィスコンティは、うまい策略を考えだした。もうじきスタートする『ルートヴィヒII 』を口実にして呼び戻したのである。他のど んな監督にも見られないほどの質の高さを要求するヴィスコンティに、バーガーは苦しめられた。それで彼は気晴らしに若手画家の絵画の蒐集を始めた。彼が有望新人のヘイコ・ ピピッヒを知ったのは、このときである。 ヴィスコンティはまた、クラシック音楽についても彼にいろいろ教えたので、バーガーはマーラーを齧ってみたが、オペラは自分には向かないと告白している。だから、『ルート ヴィヒII』で使われたワグナーの曲にも共感できず、ワグナーの『ニーベルンゲンの指輪』の全曲を知りたいとも思わなかった、と言っている。この映画のためにバーガーは、ルードウィッヒに関する本だけではなく、ワグ ナーに関する本もたくさん読まされたが、彼はワグナーのことを「豚」とか「ギャング」 と呼んでいる。
 一方、ルートヴィヒのことは好きになり、 戦争に反対したこの人物に共鳴するまでになった。ルートヴィヒは生涯の役だ、と彼は述べている。撮影中はまた非常にナーバスにな り、眠れなくなった。
「夢の中で、私はルートヴィヒになる。また 、ある時点では、実生活の中でも私はルートヴィヒになる。本当ですよ。私たち二人には共通点があるのだ。人生に対する深い畏怖の念、群衆の中の孤独感、自己観察癖、誰にも理解されていないという感情、そしてスタイ ルと文化と芸術を尊重する考え方」
(ルーとヴィヒ的、ヘルムート的な部分は誰 にでもあるのではないでしょうかね)
 撮影中、ヴィスコンティは最高のものしか 認めない。
「ハードな撮影で、良き友ロミー・シュナイ ダーがいなかったら、私は脱落しているところだった」
 二人は、いわば、きょうだいのようで、彼女の方が姉、そして時には母親でもあった。
 少女イメージのシュナイダーを一人前の女として仕立て上げたのは、ヴィスコンティの 『ボッカチォ70』だった。それ以前の彼女は、評判になった『シシー』3部作でオーストリアのエリザベスを演じていたが、これは駄作だった。しかし、この映画は今でもオーストリアのテレビではたびたび再放映されるほどで、彼女はこの映画の役のイメージをずっと引きずっていたから、『ルートヴィヒII 』への出演については、最初は二の足を踏んだのだ。そんな彼女の気持ちを変えさせたのは、ヴィスコンティだった。「時代は変ったのだよ。あんたはもう可愛いシシーではないんだ。私を信じなさい。頭を高く上げて、女帝のように歩きなさい」その結果が素晴らしいものであったことは、ご承知のとおり(彼女の最高の演技といっていいだろう)。
 しかし、実生活でのロミーシュナイダーは 、幸せではなかった。再婚したり、ウィリー ・ブラント首相との情事があったりもしたが 、ずっとアラン・ドロンを愛していたのだ。 ドロンは彼女の生涯の恋の対象だった。大女優ではあったが、クスリとアルコールで若くして死ぬことになった。
 しかし、『ルートヴィヒ』の撮影中は、ハードな一日の撮影が終って夜みんなが集まると、賑やかに騒いだ。子供のゲームをしたり 、赤ワインを回し飲みする。シュナイダーとバーガーは気が合った。撮影中、観光客がルートヴィヒの城を見物に来ると、撮影を中断 して休憩になることがあったが、そんなときバーガーは、役の衣装のまま、その場でじっと動かないでいるので、観光客は展示のマネキンだと思ったものだ。
 バーガーは、二つの役のはざまを漂う、俳優という職業の悩みについて語っている。 「信じてもらえないかもしれないが、俳優は精神分裂症なのだ。ひとつの役を何ヵ月も、 それが実生活であるかように演じる。終れば 、しばらく家に戻れるが、すぐに次の役を演 じることになる。混乱しないほうがおかしい 。そしてさらに、本当はどんな生活を送っているんだと覗きたがる大衆がいる。つねに後ろから見られているようで、気分悪いったらない。ほんとうに消耗する職業なのだ。それで、何か問題が持ち上がったりしたなら、私はさっさとその場を去って、どこかに旅に出ることにしている。私はそういう人間なのだ 。問題についてあれこれ論じたりしない。ただ、立ち去るだけだ」
 演じるということは、自分の内気さに対する治療である、とも彼は言う。また、俳優と いう消耗する職業に耐えられなくなって舞台を離れ、結婚して田舎で暮すようになった知人が何人もいる、とも言っている。
 ロミー・シュナイダーも本当は家庭を築きたかったのだが、できなかった。母親の資格は立派に持っている女性だったが。バーガーは彼女からもらった手紙は今でも全部持っており、「ヘルムートへ」という書き出しの手紙がこの本にも収められている。バーガーとシュナイダーの二人は、なんでも笑って済ますことができるような仲だった。一度なんか 、バーガーのミスで彼女の指輪を穴に落として失くしてしまったことがあったが、そのときも笑って終りになった。バーガーはシュナイダーからもらった彼女の祖母の指輪を今でもはめている。ロミー・シュナイダーは彼の最良の友の一人だったのだ。


Ich-part9

 その後数年間、ヴィスコンティがザルツブ ルグに来ないと、バーガーはすさんだパーティーでよく遊んでいたが、その中でも格別にムチャクチャをやったパーティーは、パリの金持ちの気狂い集団と一緒にやったものだっ た。連中と一緒にひと夏をサントロペで過ごし、
「女の子たちをスウェーデンから飛行機で呼んで3日間やりまくったあげく、また飛行機で帰したりした。私たちの一派は有名になったが、本当はみんなから嫌われていた。特に貴族階級からは嫌われた」
 パーティー遊びの話のついでに、バーガーはエイズのことも書いている。彼が初めてエイズのことを聞いたのは、1975年の『エンテベの勝利』の撮影が終った後だったそう だ。以来、彼はコンドームなしのセックスはしていない。
 エスタンヴィユ家のエレーヌ伯爵婦人の50歳の誕生パーティーが彼女の屋敷であったとき、バーガーはモナコのグラチア王妃に紹介された。王妃は、モナコにいるオナシスや イタリア・マフィアなどの金持ち連中の悪影響を憂慮していたそうだ。
 バーガーはここで話題を変えて、映画の仕事の話をする。アルトゥール・シュニッツラ ーの戯曲を原作にし、オーストリアの舞台俳優兼監督のオットー・シェンクが監督した1 973年の『輪舞』の話題だ。この映画は撮影も良好だったし、オーストリアの文化も気に入ったとバーガーは言っている。撮影中は有名なホテル「ザッヒェル」に宿を取り、ウ ィーンの上流階級との交遊を楽しんだ。
 この映画の前に撮ったのが『殺人命令』(1971)だった。監督はドゥッチョ ・テッサリで、共演はシドニー・ローム。バ ーガーはシドニー・ロームを好きになって、 ラブシーンでは危うく本当にセックスしそう になったと言っている。Sho注・ここでバーガーは勘違いをしたようだ。『殺人命令』は1973年の作品で、監督はホセ・マエッソ。1971年『血の羽根をつけた蝶』がドゥッチョ ・テッサリ監督である。
 バーガーは、ここでまた話題を変えて、住宅やインテリアデザインの話を始める。自分にはスタイルや美に関して特殊な思いがある 、と彼は言うが、彼の場合はいささか度が過ぎていた。例えばカステルグランドルフォに彼とヴィスコンティのために用意した家。こ れは、それこそ一財産つぶすほどの出費を強いられた。なにしろバーガーときたら、とにかく高価な物しか買わないのだから。一度なんか、ボート・ハウスを作ろうなんて言い出 していて、そのボートを買うのを忘れたことさえあった。あれこれやったあげく、結局その家は使いものにならないまま、チョン。「 ちょっと誇大妄想だったな」とバーガーはのたもうたものだ。
 年を重ねるにつれて、バーガーは“父親” たるヴィスコンティに対して反抗的になり、 自分自身のスタイルと自分自身の住まいを確保したいと主張するようになっていった。バーガーは独り立ちしたかったのだ。
 だから、監督も自分で探して、ティント・ブラス監督で1本撮ったりした(『サロン・ キティ』)。これは良い映画だったが、ヴィ スコンティはこの監督を嫌った(ブラスはその後、巨乳の女たちが出演する芸術ごかしのセミポルノ映画を制作し、イタリアのラス・ メイヤーのような存在になった)。
 バーガーはさらに実験劇団を探訪したり、アングラ文化にも興味を示した。
 1971年から、バーガーはキッツビュールに自分の家の建設を始め、設計まで自分で手掛けた。いってみれば別荘だったが、やたらに大きな家で、建築家が何人もかかわったほどのものだったが、結局、バーガーはこの住まいはほとんど利用しないまま、ドイツのサッカー選手フランツ・ベッケンバウアーに1973年に売り渡してしまった。金がかかりすぎて、そこに住んでいる暇もなかったのだ。
 次は、アリストテレス・オナシスと彼の妻でオペラ歌手のマリア・カラスと共にしたヨ ット「クリスチナ号」での話。それはまさに贅沢の極みの生活だった。誰かローマに行きたいとか、パリに用事があるという者がいる と、ヘリコプターで送ってくれるという案配なのだ。バーガーはここで3週間を心から寛 いで過ごした。オナシスも愉快な人物で、バーガーは彼に幾らかセクシーな匂いも感じたほどだ。
 その後、バーガーはオナシスのライバルで ある、やはり金持ちの、スタヴロス・ニアルコスとも知り合ったが、オナシスのときのよ うな仲間意識は感じなかった。ニアルコスはパーティーが好きでなかったのだ。それでも 、ニアルコスの船に招待されるということは 、大変な名誉である。なにしろ、その船「ア トランチス号」ときたら、全長139メートルという信じられないような長いヨットだっ たのだから。オナシスとニアルコスとのあいだで、どっちの船が大きいかという競争があったのだが、勝ったのはニアルコスだったのだ。まあ、それはともかく、そのニアルコスから、休暇を「アトランチス」で過ごしませんかとバーガーが招待されたというのだから 、そっちのほうが驚きだ(この理由はおそら く、バーガーの親しいエレーヌ伯爵婦人に、 ニアルコスが参っていたからだろう)。そしてここから、気狂いじみた航海が始まること になる。


Ich-part10

 この「アトランチス号」での船旅について 、バーガーは長々と書いている。彼の贅沢欲 が、この船では心ゆくまで満たされたのだか ら。なにしろ、乗客のために働く人間だけで 32人も乗り組んでいるし、各個室には、ゴ ッホやウォーホールといった大家たちの絵が 飾られており、当時ではこの「アトランチス 号」こそが、個人所有としては世界最大のヨ ットで、だから入港できる港もパルマ・デ・ マロルカかモナコしかないといった豪華なも のだったのだ。
 乗っていたのは、ニアルコスと息子のフィ リップ、エレーヌ伯爵夫人、そしてアメリカ 女性のクレオ・ゴールドスミスとその妹のデ イダといった面々である。まずニアルコスを 怒らせたのはエレーヌ伯爵夫人だった。いつもの癖で出航するときには遅れてきたし、自室の便所のビデに大豆の木を植えたりしたか らだ。
 連中は夜毎、高速艇を仕立てて陸の高価な ナイトクラブに出没していた。それで、昼間 は陽射しで眠れないからと、バーガーは船室 の丸窓を銀紙で覆ったので、みんなの失笑を かったりした。
 海の荒れる日が続いたことがあった。みんな船酔いになり、それを治そうとブラディ・ マリーをガブガブ飲んでいたが、そのうちに 、ウォッカからウイスキー、マチーニ、エル ネブランカ、ジンと手当たり次第に飲みまくって、その結果、強風による船の被害はたいしたことなかったのに、酔っぱらった連中が あちらこちらを壊したものだから、ニアルコ スは怒りまくった。
 パルマ・デ・マロルカに停泊していたとき 、今は国王になっているスペインのホアン・ カルロスが船を訪ねてきて、特別ディナー会 が開かれた。が、それは気まずい夕べになってしまった。というのは、バーガーの知人で あるクレオ・ゴールドスミスはカルロスのこ とを知らなかったから、「ねえ、もう一杯い かが? ところで、あなたは何してる方」な んて尋ねてしまったからだ。それにまた、彼女の妹のデイダは、ニアルコスがセクシーな服装は禁止していたにもかかわらず、その晩 はホットパンツ姿だったのだ。結局、この二 人の御婦人は船から追い出されることになっ た。
 エレーヌ伯爵婦人はマルベラに別荘を持っていたので、あるときバーガーと彼女の二人でその別荘に行って、コカインをやった。で 、港に戻ると、船は出た後だったので、二人 はまたしこたま飲んでから、高速艇を雇って 船に追いついたのだ。ニアルコスは怒った。 だってエレーヌもバーガーもすっかりハイに なっていて、ニアルコスのことなんか眼中になかったからだ。そんなに怒られるなら、あなたの家に行こうと、バーガーとエレーヌは 陸に戻ることにした。
「そして二人でスーツケースの荷造りをした 。私の分はルイ・ヴィトンのスーツケースが1 0個。で、この真夏の夜、私たちはドレスア ップして船べりに立ち、スーツケースを次々と海に投げ込んでから、エレーヌと私と二人 して飛び込んだ。12メートルの高さから。 ほんの冗談のつもりでね」
 ところが驚いたことに、バーガーは次の年もニアルコスから、今度はエジプト旅行に、 招待されたのだ。「きっと私のことを面白いヤツだと思ったのだろう」。一行はピラミッ ドを訪れたが、しばらくして、連中に呪いが降りかかった。この旅行に参加した大勢の者が、旅行から帰った後、具合が悪くなったの だ。神の怒りに触れたのだろう。 (ニアルコスとのこの二度の旅行の話は、あ まり面白くない。バーガーは他の連中の話ばかりして、自分のことをあまり書いていないからです)。


Ich-part11

  次はバーガーとリズ・テイラーの話である 。二人は1973年の『別離』で共演したが 、自分の女房がバーガーとラブシーンを撮ることに、リチャード・バートンは凄いヤキモチを焼いたものだ。
 そのあと、みんなでスイスに行って新年を祝うことになったが、バートンは酔っぱらっ て転んで腕を骨折してしまった。バートンは妻のリズ・テイラーをよく邪険に扱ったが、 それでもバーガーはバートンが好きだった。 その新年の祝いのときには、バーガーの友達 のロレツォ・リポリも一緒だったが、二人は 、ちょっとした悪ふざけを仕掛けた。朝になってリズ・テイラーが二人を起こしにいくと 、二人の男はつんつるてんの赤いスリップしか身につけていなかったので、リズはびっく り仰天。すると二人の男は真面目くさった表情で言ったものだ。えー?元日は誰も一日 中赤い服を着ているものなんだよ。そうしないと、その年は幸せになれないんだよ、と。
 『ルートヴィヒII』の編集を終えたヴィス コンティが発作に襲われ、ひと晩中苦しんで いたのは、まさに、ちょうどその頃だった。 以後、彼の半身は麻痺したままだった。なに しろ彼はタバコ1日80本を死ぬまで続けて いたのだから!
 そのときバーガーはパリで撮影中だった。 ホテルのバーでウイスキーを浴びるように飲んでから空港に駆けつけた。
「私は酔っぱらったままローマに着いた。フ ラヴィア病院に直行すると、すでにヴィスコ ンティ・ファミリーの全員が集まっていた。 連中は私を彼に会わせてくれなかった。誰でも彼の部屋に入って行ってるのに、“ヘルム ート、あんたはダメだ”と言われたのだ。奴 らは絶対に許さない」
 もちろん、バーガーは“私のルキノ”に会 うための手だてを考え出した。パリに戻ったバーガーはロミー・シュナイダーに相談した 。彼女の兄が著名な医者で、スイスのチュー リッヒの病院で病院長を務めていたのだ。それで、ヴィスコンティをその病院に移し、手術した。手術は成功し、しばらくすると歩けるまでに回復した。
 ヴィスコンティは仕事を休むことの出来な い人である。ただちに脚本を書き始めた。それが『家族の肖像』だった。この作品の撮影 はバーガーにとってはハードワークだった。 というのも、彼は、この『家族の肖像』と、 ミラノで撮っていたネロ・リージ監督の『恥の柱』を二股かけて出演したからである。ヴ ィスコンティの映画は英語だし、リージのは イタリア語、という忙しさである。
 ヴィスコンティは発作から回復してからは 、以前にも増して仕事に集中するようになり 、トーマス・マンの『魔の山』の映画化を企画したが、トーマス・マンの遺族とうまく折 り合いがつかなかった。それで作ったのが『 イノセント』である。しかし、バーガーはこの作品には出ていない。これより前から『愛と哀しみのエリザベス』の撮影に入っていたからである。
 この撮影が終って疲れ切ったバーガーを見 て、ヴィスコンティは、リオ・デ・ジャネイ ロのフロリンダ・ボルカンのところへ行くよ うにと促した。
 ところが、バーガーがリオに行くと、フロ リンダも彼女の友人たちも、どうも様子がお かしい。何か異変があったに違いない。数時間後にやっと、バーガーがローマからリオへ飛んでいるあいだに、ヴィスコンティが死んだことを聞かされたのだ。
「私は頭の中が真っ白になり、フロリンダの友達のマリーナを殴りつけていた。正気に戻ると、ただちに荷物をまとめて車で空港に駆 けつけた。ローマまでのファーストクラスのチケットを買おうとすると、アリタリア航空 は料金を取ろうとしなかった。なぜだか判りますよね。巨匠ルキノ・ヴィスコンティへの哀悼のためです。こんなことをしてくれるのは、イタリア人だけだ」
 バーガーは何がなんだか判らなくなっていた。ヴィスコンティに電話をかけようとした り、おそらく自殺しようと思ったりもしただろう。だが、メードのマリアが一時も彼の側を離れず、寝るときも彼に付き添っていたのだ。
「ヴィスコンティの葬儀は国葬になった。政府の要人をはじめ、フェリーニ、デシーカ、 クラウディア・カルディナーレ、アラン・ド ロン……みんな列席していた。列席者たちは みんな黒いサングラスをしていた。でも、私だけは違っていた。私は、みんなに私の顔を曝したかった。ルキノに、ありのまま姿でさ よならを言いたかった。隠すことは何もないではないか。涙も出なかった。私は一種の恍惚感にひたっていたようだ。私は、この葬儀のために自分で作った大きなハート型の花輪を、ただ見つめていた。それ以外のものは何もかも幻だった。私は、音のない、魂のない 、ルキノのいない映画の中で演じていた。私 は独りきりだった。神よ、これが私の当然の報いだというのか。いやだ!」




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