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「1年後の1977年3月17日、私はルキノの後を追うことにした。彼が行った新たな世界で彼に再会したいと希望し、また出来ると信じていた。彼のいないこの地上に、いったい何があるというのか。
準備は完璧、怠りなかった。薬を慎重に入手していった。友人たちやメードのマリアがしょっちゅう見張っているので、慎重にやらざるをえないのだ。必要なだけの薬が揃うと、私は爽やかな気分でそれを嚥み込んだ。ところが、である。午後から出勤のはずのマリアが、その日にかぎって、朝から来てしまったのである。それで、見つかってしまった。それが良かったのか、悪かったのか。20年経った今でも、それが良かったのか悪かったのか、私には判らない。言い訳の繰り返し!これでで良かったのだ、いや、そうじゃない、と私の気持はヨーヨーのように揺れつづけているのだ。
次の日、私は病院で目を覚ました。4、5日入院しているようにと言われたが、私は飛び起きて病院を出た。目が覚めたとき、私は落ち込んだ気分から解放されていた。ここに私がいる。暑さも寒さも感じる自分がいる。思いを遂げられなかったのなら、新しい人生に挑戦しようじゃないか」
バーガーによれば、薬の飲み過ぎだったのだそうだ。12錠で充分なのに、彼は18錠も嚥んだ。それで、意識を失ったあと、自然に吐き出してしまったのだ。
アーシュラ・アンドレスやマリサ・メルなんかが面倒を見てくれて、ロミー・シュナイダーもたびたび電話をかけてくれた。バーガーはマリサ・メルのことを、こんなふうに語っている。二人は良い友達になったけれど、ひとつだけ気に入らないことがあった。それは、他の女優たちはそれなりにレディになりつつあるのに、彼女はいまだにセックス・アイドルにこだわっていることだ、と。
次はヴィスコンティの遺言の話。
「ヴィスコンティの遺言はどうなっていたのかと、よく尋ねられる。彼の遺族の話では、最後の遺言は無いということだったが、執事は、あれは遺族が隠したのだと教えてくれた。しかし私としては、彼が亡き今、そんなことでスキャンダルを蒸し返したくはない。
ただ、カステルガンドルフォのサマーハウスを失ったことだけは、ときどき残念に思うことがある。あれはヴィスコンティから私への贈り物だったはずなのだが。でも、まあいいさ。“人生なんて、そんなもんよ”というロミー・シュナイダーの声が聞えてきそうだ。結構、結構!
もっと大きく考えよう。ほどほどに、なんて考え方には私は興味ないのだ。大きな役を演じてやろうではないか、と私は思った」
そして、彼はそれを実行に移した。『レ・ヴォラス』(セルジオ・ゴッジ監督)、『勝利』(アントニオ・リバス監督)、リズ・テイラー、リチャード・ドレフュス、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、リンダ・ブレア等と共演したアメリカ映画『エンテベの勝利』で。
「リンダ・ブレアとは、激しくせっかちな情事を持った。ハリウッドのシャトウ・マルモンで関係したのだが、そのときは彼女の兄ともセックスした。彼の方が私を誘惑したのだ。兄妹ドンブリだ。神様の罰が当りませんように」
バーガーはさらに『大いなる攻撃』、『ダンツィヒの薔薇』(フランコ・ネロ共演)にも出演した。バーガーの人生には、とかく嫉妬がつきもので、フランコ・ネロも嫉妬深い男だった。二人は撮影中に何度も喧嘩した。
「嫉妬というのは信仰に似ているところがあって、自分を信じている人には嫉妬心がないものだが、どういうわけか私は、嫉妬深い人たちばかりの中で生きてきた。それは小学生のときから私に付いてまわっていた。私は非常に集中力のある生徒だったので、あまり勉強をする必要がなかったのだが、俳優になってからも、それは同じだった。台本はたちまち覚えてしまう。すると、他の俳優たちが嫉妬するのだ。私はいつも活動的で、知的で、スポーツマンで、モダンで、そして自分の興味あることだけに専念している。嫉妬は暴力を産み、戦争の元となり、民族離散の元となるものなのだ。そうでしょう?」
ハリウッドでも嫉妬はついて回った。バーガーが『ダイナスティ』に出演しているとき、『ダラス』に出演している俳優や友人たちとは、言葉を交わすことさえ、はばかられた。その二つのテレビ番組がライバル関係にあったからである。
「ヴィスコンティが亡くなってから、私のもとには何百通という手紙が来たが、ローマから来た手紙は3通きりだった(フローラ・マストロヤンニ、ヴィルナ・リージ、彼のマネージャーのキャロル・レヴィーからの3通)。では、他の友人たちやアーチストたちはどうなってしまったのか。何かあったのか。
ヴィスコンティのスタイルは時代遅れさ、という声が急に広がり始めた。“ヴィスコンティアン”という言葉は否定的な響きをもって語られるようになった。ヴィスコンティ?あれは古典だろ。しかし、これは同時代人の嫉妬だと私は信じて疑わない。ヴィスコンティが亡くなってから、他の監督の映画作品なんて、みんなクソだ、と言える人がいなくなてしまったのだ。
それから何年も、私は呆然と暮していた。他の監督たちにとって、私は“ヴィスコンティアン”の俳優にすぎなかった。ヴィスコンティ亡き今、私は人間としても俳優としても半人前でしかなかった。彼が私を鍛えてくれたのだ。美についても、映画の趣味、スタイル、デザインについても、みんな彼が教え込んでくれたのだ。
こういった何もかもが、私の自殺未遂の原因だった。私はいまだに、他の俳優たちのファースト・フード風映画にはなじめない。私は映画に質を求める。贅沢だろうか。私が専用のメークアップ・アーティストのアルベルト・デルロッシや、専用の秘書が欲しいというと、プロデューサーはイヤな顔をする。彼らは品格とかスタイルというものを毛嫌いするのだ。しかし、私はアーチストたちの創造力を信じる。負けてたまるか」
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