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息子マルティンに犯されて,狂気に陥ったソフィの枕元にある幼い日に描いたマルティンの絵。そこに書かれている文字,”マルティンとお母さん”,”マルティンはお母さんを殺す”はヴィスコンティ自らが書いたものである。
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| ペガソ・イタルノレッジオ、プレジダン、アイヒベルク・フィルム:作品 1969年,イタリア/スイス/西ドイツ 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 制作:アルフレッド・レヴィー 脚本:ルキノ・ヴィスコンティ、ニコラ・バダルッコ、エンリコ・メディオーリ 撮影:アルマンド・ナンヌッツィ,バスクァーレ・デ・サンティス 音楽:モーリス・ジャール 編集:ルッジェーロ・マストロヤンニ 美術:バスクァーレ・ロマーノ 衣装:ピエロ・トージ、ヴェラ・マルツォ 助監督:アルビーノ・コッコ、ファニー・ヴェスリンク 上映時間2時間37分。イーストマンカラー・ヴィスタサイズ。英語。 初公開1969年10月。日本公開1970年4月11日。 出演: ダーク・ボガード(フリードリッヒ・ブルックマン) イングリット・チューリン(ソフィ・フォン・エッセンベック) ヘルムート・バーガー(マルティン・フォン・エッセンベック) ウンベルト・オルシーニ(ヘルベルト・タルマン) シャーロット・ランプリング(エリザベート・タルマン) ヘルムート・グリーム(アッシェンバッハ) ルノーヴェルレー(ギュンター・フォン・エッセンベック) ルネ・コルデオフ(コンスタンティン・フォン・エッセンベック) アルブレヒト・ショーンハルス(ヨアヒム・フォン・エッセンベック) フロリンダ・ボルカン(オルガ) ノラ・リッチ(家庭教師) サブタイトルは「神々の黄昏」となっており,ワーグナーのオペラ「ニーベルンクの指輪」を素材にしている。日本では1980年に公開された『ルートヴィヒ』のサブタイトルとなった。ドイツ三部作の第一作。 ナチス勃興期のドイツを舞台にした鉄鋼財閥エッセンベック一家の退廃と没落の物語。恐るべき権力のもと、親衛隊幹部アッシェンバッハの陰謀により、見事に腐敗し崩れ落ちた中から生まれたマルティンの変貌。 ナチスドイツの姿をこの一家に投影しながら社会と個人の崩壊を,1934年に起きた「血の粛清」事件をピークにヴィスコンティは絢爛とした映像で描いている。 鉄鋼王の孫の役で,近親相姦・女装・幼女姦など特異なキャラクターでヘルムート・バーガーの名を世界中に知らしめた出世作。 ディートリッヒばりの女装で登場し,映画『嘆きの天使』の主題歌「ローラ」を歌う。ラストでは死においやった母親の醜悪な姿の前で,ナチス式の敬礼をする軍服姿のバーガー。 私は倒錯大好き人間なのでますますこの人にはまってしまった。 (「Metti una sera a cena」でフロリンダ・ボルカンとは共演している。) |
1998.12.09UP
1999.05.31UP
| ヴィスコンティ「地獄に堕ちた勇者ども」を語る |
ドイツを舞台にした映画は長年の夢だった。『地獄に堕ちた勇者ども』は、まだ生々しい現実の記録であり証言である出来事だ。血なまぐさい暴力と非情な権力の物語で、背景としてナチズム政権下のドイツを選んだ。 私のアイデアは,ある家族が未だに罰せられてない罪を犯したという歴史を語ることにあった。このような事実は現代の歴史において,どこでいかにしていつ起き得たことなのだろうか?それはナチズムの下において、虐殺も、そして個人的な殺人も起きたのである。そういうわけで私は、ドイツの鉄鋼業界の家族の話を、ナチズム誕生の時期に設定したのであった。 ナチズムについての作品を作ろうと考えたとき、私はできるかぎり資料を集めた。つまりこのアイデアは無から生じたのではないということだ。それは久しい間私を魅了してきた多量の資料に発しているのだ。 私の映画はだんだんと暗くなり希望がなくなってきたと言われるが、この映画などまさしくそういうものである。この怪物の家族の中に希望の曙光でも見出そうということは私には不可能であった。それは「これらの怪物達をまた生き返らそう」と言うのと同じことである。いや、彼らはすべて出口のないガス室に入れられて窒息死させられてのだ。私はこの映画のラストでいかなる希望も、いかなる救いをも怪物達に与えようとは欲しなかった。そして実際、この映画はナチズムの歴史が始まる時点で終わっており、その後に起きたことを我々は知っている。 最初、私はすべての登場人物がの中でギュンターだけを救おうと欲していた。だがだんだんと、それはげんじつにはそぐわないものであるということがわかってきたのだ。現実は、ギュンターはナチズムに閉じこめられ、彼もまた窒息死させられたのである。マーティンがギュンターに,フレデリックが自分でギュンターの父親を殺したので,ギュンターは激怒して復讐を決意したのだと語るシーンがある。彼の内部にあるこの狂った憎しみは、アッシェンバッハによって鎮められる。彼はこう言うのだ。「君の内部にあるその憎しみは素晴らしいことだ。だが個人的な復讐にそれを使おうとするのは贅沢だというものだ。我々は君の憎しみを産業化することを知っている。我々と一緒に来い。君は我々の味方になるんだ。我々の一派になるんだ。つまりナチになるのだ」と。 このシーンは意味が深い。ギュンターのように、映画の三分の二までのあたりまでは唯一の聖なるエスプリの持ち主である青年もまた、組織の中に吸収されてしまうのだ、ということを示す上で。他の人たちは自滅していく。エリザベートは死に、ヘルベルトはゲシュタポに箕を任す。この三人だけが映画の肯定的要素だったのに、その彼らも滅びてしまう。なぜならナチというのは、こんなものだったのだから、他の結果は考えられないのである。 母親と息子の関係を除けば,この映画にフロイト的なものは何もない。ここではマルクスは表面的に盛り込まれているのではなく,深く掘り下げられているのである。この家族のシチュエーションはマルクス的な眼で見られている。なぜならばこのような構成の家族がこのように行動し,振る舞い,このような責任を負うならば、他にいかなる結果も考えることはできないからだ。そういう問題はここでは、より明瞭に、より堅い方法で扱われていたのである。 『地獄に堕ちた勇者ども』をなぜ、イタリアのファシズムの時代に設定しなかったか。それは、悲劇と喜劇のちがいということで答えられる。もちろん、イタリアにおいてもファシズムは多くの場合、悲劇だった。しかし、歴史的状況という観点からみて、ある種の犯罪性をみちびきだす真の典型ということになると、ファシズムよりナチズムのほうが、より暗示的である。多分、全世界的見地からも。つまり、ナチズムは大悲劇であった。まるで、恐ろしい流血機械のようにその口を開き、全世界に散らばった。 一方、ファシズムは、全世界に影響を及ぼしたりはしなかった。オペラとオペレッタ、その差だとも言える。 |
1999.04.03up
1999.09.12up
2000.02.02up
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